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DATE : 2001年6月25日


CONTENTS
BIOGRAPHY
FILMOGRAPHY
COLLECTIBLES

REFERENCE
ジョーニー・ハイドとの出会いと苦悩
ジョー・ディマジオとの結婚
アーサー・ミラーとの結婚
クラーク・ゲーブルへの憧れ


■■■ BIOGRAPHY ■■■

1.ノーマ・ジーン・ベイカー ▲トップ に戻る

1926年6月1日、マリリン・モンローはノーマ・ジーン・モーテンソンとしてロサンゼルス私立総合病院で生まれ、後に洗礼を受けノーマ・ジーン・ベイカーと改名した。父親が誰か分からない私生児だったので、その名は母のグラディス・モンロー・ベイカーの姓をとって付けられた。
彼女の誕生は決して幸福に満ちたものではなかった。後に彼女はこう語っている。
「私は間違いで生まれたの。だから母は私を望んではいなかったし、たぶん彼女にとって私は恥であり邪魔な存在だった。それでも、私は母が私を望んで生んでくれたと信じたいと思うの。」

余談だが、ノーマ・ジーンは生まれつき奇形で足の指が6本あった。これは、幾つかの彼女の写真でも確認する事ができる。



彼女の幼少期は非常に貧しい上に、その環境はまさに最悪だった。
1927年、 祖母のデラは眠っていた1歳のノーマ・ジーンを、枕で押さえつけて殺そうとした。彼女は後にこの事実を知りショックを受け、睡眠恐怖症になったとゆう。
また、精神的に病んでいた母のグラディス・モンローは、1930年、ノーマ・ジーンが 5歳の時に精神病院に入院してしまう。1933年に退院し、一緒に住むようになったが母は再び入院し、結局ノーマ・ジーンは里子に出された。
月20ドルの政府からの養育費を当てにした、十一とも十二ともいわれる養い親たちの間を転々とするが、この間にある里親の一人に性的虐待を受けたとゆう。

その後、1935年から1937年まで、彼女が9歳から2年間を孤児院で暮らした。
偶然にも、孤児院の隣に RKO映画のスタジオがあり、映画スターに憧れるようになる。これが後のノーマ・ジーンの人生に大きな影響を与えた。



1941年、ヴァン・ナイズ高校に入学。15歳の彼女は伯母のアナ・ロウアーに引き取られる。
アナは暖かく彼女を迎えた。マリリンにとって、これが生まれて初めて人の優しさや愛情を感じた時かもしれない。アナが70歳で他界するまで、ノーマ・ジーンは彼女を実の母のように慕ったとゆう。


2.初めての結婚とモデルの仕事 ▲トップ に戻る

1942年6月19日、ノーマ・ジーンは16歳にして当時働いていた飛行機製造工場で出会った5歳上のジミー・ドハーティと結婚する。

1944年、夫のジミーとサンタ・カリナ島の海軍基地に転勤する事になり2人で移り住むが、この事が彼女の人生に大きな転機をもたらすキッカケとなった。

当時、女性による軍への貢献を促進する企画のために、あるカメラマンがこの海軍基地にやってきた。
ノーマ・ジーンはこの時に写真のモデルとなったが、これがキッカケでその後もモデルの仕事をするようになる。

大人気となった彼女は、1945年には大手の雑誌33誌のカバーを飾る売れっ子モデルになっていた。 1946年6月にジミーと破局。20歳で離婚した彼女は、飛行機製造工場での仕事を辞め、プロとしてモデルの仕事をしながら映画女優を目指すことになった。


女優「マリリン・モンロー」の誕生 ▲トップ に戻る

1946年7月23日、彼女は週給125ドルで20世紀フォックスの契約女優となる。
そして、この時からノーマ・ジーンは「マリリン・モンロー」に生まれ変わった。
ファーストネームの「マリリン」は女優のマリリン・ミラーから、そしてラストネームの「モンロー」は母親からとった。

1947年、マリリンは「The Shocking Miss Pilgrim」で端役を演じて初の映画出演を果たす。その後の数年間は地味な脇役をこなして過したが、1950年ジョン・ハストンのスリラー映画「アスファルトジャングル」で、脇役ながらも重要な役を演じた。さらに同年「イヴの総て」を好演して注目されるようになった。
この時期、マリリンは石油会社のカレンダーの為にヌードモデルをしている。1949年、彼女が23歳の時だった。

映画「アスファルトジャングル」のエージェントだったジョーニー・ハイドとのある出来事が原因で、この時自殺を図るが、幸いにも未遂で終わった。

  ー以下、(ジョニー・ハイドとの出会いと苦悩 参照)




「PLAY BOY」
のグラビアの中の1枚
女優としてのマリリンは1952年、「モンキービジネス」「ノックは無用」に出演して確実にキャリアをつみ、1953年には「ナイアガラ」「紳士は金髪がお好き」「百万長者と結婚する方法」の大ヒットでスターの仲間入りをした。

「ナイアガラ」の中で見せた、独特のセクシーな歩き方が話題を呼んだ。あの有名な「モンロー・ウォーク」はこの時生まれた。


チャイニーズ・シアターで
手形を押す
マリリンとジェ-ン(右)
同年、世界的にも有名な男性誌「PLAY BOY」が創刊された。
この創刊号では、マリリンが以前カレンダー用に撮影したヌード写真がグラビアを飾る。記念すべき初代プレイメイトになった。

1952年、「紳士は金髪がお好き」で競演したジェーン・ラッセルと共に、チャイニーズ・シアターの前庭に 手型と、靴型を残し、スター女優の座が確実なものとなった。
1954年には「ショウほど素敵な商売はない」、「帰らざる河」が公開される。
もはやマリリンは、ハリウッドを代表するセクシー女優の1人となった。彼女は、セックスシンボルとしてアメリカで不動の地位を確立し、絶頂期を迎える。

このころのマリリンは、20世紀フォックスと険悪な関係になっていた。
会社側が彼女の常習的な遅刻やすっぽかしに手を焼いた末、彼女に給料の支払いを停止したが、怒った彼女は、ギャラの安さや待遇などを公表し対抗した。


4.ジョー・ディマジオとの出会い ▲トップ に戻る


キスを交わすジョーとマリリン
1954年1月14日にマリリンは、当時アメリカ大リーグのスーパースターだったジョー・ディマジオと結婚する。彼女にとって2度目の結婚となった。

この結婚を期に、20世紀フォックスとマリリンは和解する。
これは結婚に対する会社側の温情、または、アメリカの英雄ジョー・ディマジオの妻とのトラブルによる会社のイメージダウンを懸念した為とも言われている。

マリリンは、新婚旅行で日本に立ち寄り、初来日を果たすが、これが最初で最後の来日となった。

1954年10月27日、わずか9ヶ月で2人は離婚した。先だって行われたマリリンの弁護士による会見では、その理由について「キャリアに関しての不一致」と語った。

しかし、この後もジョー・ディマジオはマリリンを愛し続け、影で彼女を支えた。

  ー以下、(ジョー・ディマジオとの結婚 参照)


5.米軍慰問で韓国へ ▲トップ に戻る

1954年2月3日、日本に到着した翌日に、マリリンは米軍の極東司令本部から、韓国駐屯の米軍部隊へ慰問の依頼をうけた。
ジョーは強く反対したが、結局マリリンは2月16〜19日、兵士達の慰問のため韓国の10カ所以上の駐屯地をまわる。

6.女優としての転換期 ▲トップ に戻る

1955年、「七年目の浮気」が公開されると、ジョー・ディマジオとの離婚の一因になったとされる、例の地下鉄でスカートのめくれるシーンばかりが注目され、観客には受けたものの、マスコミから「見せたがりで体だけが売りの女優」といっせいに叩かれた。


ビリー・ワイルダー
確かにマリリンはセクシーで美しかったし、多くの人がそれを認めている。

この映画の監督ビリー・ワイルダーもその1人で、カメラテストの際の印象を、「こんな肉体的な迫力は珍しい。手を伸ばせば触れられそうな気がするぐらい、その美しい肉体が画面から浮き出るんだ。」と彼女が持つセックスアピールと存在感を絶賛したとゆう。

1959年にビリー・ワイルダーが監督した「お熱いのがお好き」でマリリンはゴールデングローブ賞を受賞している。



アーサー・ミラーは
「サラリーマンの死」などで
有名な ハリウッドを
代表する脚本家の1人。
マリリンにとって、大衆の愛こそが全てであり、世間の注目こそがその証だった。そして、彼女は白い肌とブロンドと豊満な肉体を武器にして、それを得る為ならば今まで何でもしてきた。
しかし、どんなに努力をしても変えられない、そして確実に忍び寄る悪魔がいた。それは若い女優にとって最大の敵である”老い”だった。

かつてドイツのセクシー女優、ベティ−・アマンは投身自殺し、フランスの肉体派グラマー女優のBBことブリジット・バルドーも手首を切って自殺未遂を起こしている。

30歳を目前にして、マリリンは肉体派女優から演技派女優への転向をはかる為、ニューヨークのアクターズ・スタジオでリー・ストラスバーグの生徒として基礎から演技指導を受ける。
ニューヨークに移ってまもなく、マリリンは写真家のミルトン・グリーンと共同で、マリリン・モンロー・プロダク ションを設立した。

1956年、マリリン・モンロー・プロダク ションの第一作目 「バス停留所」で演技派女優としての第一歩を踏み出した。

この年マリリンは、脚本家アーサー・ミラーと結婚した。

  −以下、(アーサー・ミラーと結婚 参照)

ゴールデングローブ賞の
授賞式に出席した時の様子
1957年 プロダク ションの第二作目として「王子と踊り子」が作られる。 既にこの頃からアーサーとの結婚生活は崩壊に向かっていた。

1958年、2度目の流産。最初の流産の後、カウンセリングを受け薬物治療を受けていたが、この頃から鬱状態が激しくなる。

「バス停留所」と「王子と踊り子」で、演技派としても通用する女優であることを証明したマリリンは、1959年「お熱いのがお好き」でゴールデン・グローブ賞を受賞。ブロンドとバストとヒップだけの女優が、その演技を始めて認められた瞬間だった。
また、この年マリリンは慢性子宮内膜症と不妊症等の治療のため手術を受けている。

1960年「恋をしましょう」に出演。共演者のイヴ・モンタンとの不倫が発覚する。
同じく1960年 「荒馬と女」の撮影が始まる。脚本はアーサー・ミラーが彼女のために書いたものだった。この映画でマリリンは、 幼い頃から憧れていたクラーク・ゲーブルとの競演を果たした。

  ー以下、(クラーク・ゲーブルへの憧れ 参照)

この年の11月11日、アーサー・ミラーとの離婚を発表。その直後の11月16日、クラーク・ゲーブルが心臓発作で死亡。ショックを受けたマリリンは、自殺を図り未遂に終わる。
1961年1月20日、アーサー・ミラーと正式に離婚する。三度目の結婚でも彼女は幸せを手に入れる事はできなかった。
彼女はアーサーとの離婚とクラーク・ゲーブルの死に深く傷ついた。
その後、 精神科の診察を受け、治療の為3月初旬まで入院した。すでに彼女の精神はボロボロになっていた。


7.マリリン・モンローの死 ▲トップ に戻る

1962年、マリリンはゴールデングローブ賞で世界で最も人気のある女優に選ばれた。もはやマリリン・モンローはアメリカの国民的なスターになっていた。

1962年4月25日、「女房は生きていた」の撮影が始まった。マリリン・モンローとディーン・マーチンの競演が話題となり期待されていた。しかしマリリンの遅刻やすっぽかしは前にもましてエスカレートし、撮影開始から6週間ほど経っても、彼女の出番はまだ7分20秒しか撮影が進んでいない状態だった。

5月18日、この日もマリリンは撮影をすっぽかし、ニューヨーク行きの飛行機に乗っていた。
ニューヨークに到着したマリリンは、当時の大統領、ジョン・F・ケネディーの誕生日を祝う式典に出席し、あの有名な「ハッピー・バースデイ・ミスター・プレジデント」を唄った。何も知らされていなかった当時の撮影関係者は、この様子をテレビで見て、激怒したとゆう。

マリリンのそんな態度で、ついに怒りの限界に達した20世紀フォックス社は、彼女をこの映画から降板させ、6月8日に契約不履行でマリリンを訴え、50万ドルの損害賠償訴訟を起こした。



1962年、8月5日の早朝、カリフォルニア州ブレントウッドの自宅のベットで、全裸で電話の受話器を握ったまま死亡しているのを、住み込みの家政婦によって発見された。
死因は全臓器鬱血だった。その後の司法解剖で、50錠近い睡眠薬を服用していた事がわかり、これが原因であった。
普段から睡眠薬を常用していたマリリンは、通常5錠のところをこの時約10倍の量を服用したことになる。
警察はこのことから、睡眠薬の扱いに慣れていたマリリンが、量を誤って服用したとは考えられないとし、故意に致死量の睡眠薬を服用した事による自殺と断定した。
遺書がなかったことから、世間では自殺の動機についてあれこれとウワサされた。

今日でもその真相は、他殺説も含め未だに謎のままである。



マリリン・モンローは、その波乱万丈の人生に36歳とゆう若さで幕を閉じた。

マリリンがその名を取った、マリリン・ミラーも37歳で病死している。彼女は、ブロードウェイのコメディー・ミュージカルのスターだったが、幼い頃実の父に捨てられ、その後は義父に虐待を受けて育ったとゆう。またミラーも3度離婚していた。なんとも皮肉な偶然だ。

彼女には、遺体の引き取り手がいなかった。世界中から愛されたスターは孤独だった。
そんな彼女の遺体を、以前の夫ジョー・ディマジオが引き取り、彼によって葬儀が行われた。

  ー以下、(ジョー・ディマジオと結婚 参照)

マリリンはロサンゼルスにあるウエストウッドメモリアルパーク、コリドアオブメモリーズ#24で安らかに眠っている。
そこには今でも、世界中からファンが足を運び、多くの花が絶えることなくたむけられている。

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