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「ラットフィンク」。 アメ車好きなら知らない人間はいないといっていいほど有名なネズミだ。 60年代のアメリカの不良少年に愛された”フィンキー”は、時代を超えて近年再び脚光を浴びている。 この不気味なネズミの生みの親がアンダーグランド・カルチャーの重鎮、エド”ビックダディー”ロスである。 彼はもう一つ別の顔を持つ。 彼はカリフォルニアを代表するHOT ROD ビルダーでピン・ストライプ、ブラシ・アートの達人。カスタム・カー界に革命を起こした人物である。彼の生み出した車はアートとして高い評価を受けている。 自由で気まま、でも思い込んだらまっしぐら。底抜けに陽気な僕らの”ビックダディー”。 しかし 2001年4月4日、エドは突然この世を去った。 彼の冥福を心から祈りつつ、その偉大な功績を振り返ろう。
エドは絵が好きでいつも飛行機やホットロッドとモンスターなどの絵を描いていたとゆう。 父のヘンリーは厳格な家具職人だった。エドはその作業場で木から独創的でクレイジーな物を作る方法を学んだ。 12歳で初めて車を運転したとゆうエドは、14歳の時始めての自分の車、’33年型フォード・クーペを手に入れた。そして他の若者がそうしたように彼もまたガレージで油にまみれて愛車をチューンしては仲間たちとレースやクルージングを楽しんでいた。 いつの時代も年頃の少年があこがれる物に変わりはない。当時の南カリフォルニアでもそれは同じであった。 1949年、高校を卒業したエドは自動車に関する知識を高める為大学に進み工学を専攻した。大学での勉強は無難にこなしたが、工学は退屈で彼に刺激を与えるようなものではなかった。 1951年、エドは空軍に入隊し地図の作り方を覚えた後、デンバーで爆撃を学んだ。このころ彼は副業として床屋をはじめた。 その後しばらくの間アフリカに配属され、さらにサウスカロライナに異動した後1955年退役した。 彼は軍隊生活の間、数台の車を所有し、結婚し、そして5人の男の子の父になった。 退役後、「シアーズ」の陳列担当としてパートタイムで働き、仕事を終えて帰宅するとエドは車にピンストライプを描いた。 しかし子供達が成長するにつれ生活は苦しくなり、やがてフルタイムで働くようになった。 金の無いエドだが車に対する情熱は変わりなかった。 「誰も乗った事のないようなスゴイ車に乗ってみたい。」 車好きなら誰もが一度は憧れる。しかし大抵の人は夢のままで終ってしまうものだがエドは違っていた。 彼はガレージにある簡単な工具と廃車置場にあるスクラップパーツを使って、世界でたった1台しかない自分だけのドリームマシーンを創ることに挑戦を始めた。
当時の自動車ボディーは今日と同様にスチール製だった。この新しい素材であるグラスファイバーは、金と特殊な設備のないエドにとっては、スチールに比べて加工がし易く価格も安かった為、一石二鳥の魔法の素材だった。 必要に迫られてエドが選択したこの方法は、実は従来の自動車製造の常識を打ち破る革命的なことだった。 努力の結晶で完成したその車は"Little Jewel"と呼ばれ、やがて「OUTLAW (アウトロー)」と名付けられた。 エドは自らの夢を実現すると同時に、情熱と想像力と努力、そして必要最小限の自動車整備技術と知識があれば誰でも自分のガレージで理想の車が作れることを証明した。 彼の作業場はアトリエに変わった。 彼は「OUTLAW」に続き「BEATNIK BANDIT」、そして「ROTAR」を次々と製作した。彼の生み出す車は走る事よりもデザインを重視した「タイヤが付いた彫刻」だった。
やがて彼のブースは評判を呼び多くの人が取り囲むようになった。 この時、彼の描いたモンスターの中で最も人気が高かったのが「RAT FINK(ラット・フィンク)」だった。 エドはカスタム・ビルダーとしては既に天才的だったが、彼の名を有名にしたのは車ではなくこのラットフィンクだった。 ラットフィンクは彼が自宅の冷蔵庫に落書きした不気味なネズミをモデルにしたもので、”ミッキーマウス”に対するアンダー・グランド・カルチャーの回答として、落ちこぼれた少年たちや社会からドロップアウトしたアウトローのシンボルになった。 ラット・フィンクが示したアンダー・グランド・カルチャーの新たな方向性は、「シンプソンズ」、「レン&スティンピー」や「サウスパーク」等の社会風刺とブラックユーモアに満ちたキャラクターに現在も受け継がれている。 「RAT FINK」は全米の十代の若者を中心に大人気となり、1963年頃にはTシャツ、ポスターやカー・デカールが大量生産された。 エドは、大量の注文をこなす為、カリフォルニア州レイクウッドに新たな店を構えて従業員を雇い、ホットロッド・カーのオーダーメイドとラットフィンクのTシャツなどを販売する会社を経営した。
ラット・フィンクとエドの人気に目をつけたアメリカの大手模型メーカーのRevelll社は、エドのカスタム・カーをプラモデルとして発売し大ヒットした。 エドに”BIG DADDY”と名付けたのはこのときのRevell社の広報担当者だった。彼はエドがとても大柄で、高校時代に ”BIG ED” と呼ばれていたとゆうエピソードをヒントに”BIG DADDY”と名付けた。 このニックネームをエド自身もとても気に入っていたとゆう。
この時エドが受け取った特許料は商品1つにつき、僅か1セントだったとゆう。 しかしながら、エドはこの特許料だけで年間32,000ドルを受け取っていたとゆうから当時の人気の高さがうかがえる。 こうしてエドの生み出すラットフィンクやドラッグマシーンに乗ったモンスターたちは、たちまち全米に広がって不良少年のヒーローとなり、それを反映して彼のキャラクターたちは、ロックミュージックの世界にも波及し始めた。 彼自身が「Mr. Gasser and the Weirdos」とゆうバンド (Mr. Gasserはエド本人) をプロデュースするほか、サーフ・ミュージシャンやパンクロッカーのレコードジャケットにエドの作品が多く使われた。 自身も芸術家として活動しているホワイト・ゾンビーズのロブ・ゾンビーは、エドを芸術の父と呼び尊敬するミュージシャンの一人である。 その後もエドのアートワークは、TATOOパーラーやアンダーグランドコミック、アートギャラリーをはじめ、あらゆる方面に増殖し、彼の元を離れて一人歩きをはじめた。 エドは、トム・ウォルフが1964年に出したエッセイの中で、「最もハデで、最も知的で、そして最も気まぐれなカスタマイザー」と記されている。エドの自由な生き方と好奇心は彼に多くのものを与えたが、失うものも多かった。 彼の興味は車からバイクへと移り、チョッパーに跨りバイカーとぶらつき始めた。 この頃のエドはバイクに夢中だったようで、流行していたチョッパーなどを扱ったカスタムバイクの専門誌「STREET CHOPPER」を創刊したほどだ。 やがてヘルズエンジェルズのメンバーと深く関わるにつれ、 Revell社は彼との契約に不安を抱くようになり、ついに1967年に彼との契約を中止した。 ロスは1973年、ロサンゼルス・タイムズの記者に対してこう語った。 「私は自分自身の事をよくわかっている。 私は変わり者だ。そして子供の頃のままいつまでも成長しないんだ。」 1974年、彼はモルモン教会に信仰を求めそれまでの世間に対する反抗的なライフスタイルを捨てた。 しかし、彼のカスタム・カーに対する情熱は死んではいなかった。1997年、AP通信の取材に対してエドはこう話した。 「私の自動車に対する狂信的な情熱は、もはや中毒だよ。」
"Hot Rods and Customs - The Men and Machines of California's Car Culture." と題してエドの創った「BEATNIK BANDIT」の実車等が展示され、カスタムカーが芸術の1つとして認められた。 この美術館の館長は、 「ロス氏の創り出すカスタムカーは南カリフォルニアの文化に対して莫大な影響を与えた。」 と語った。 また、ロサンゼルス郡博物館では、 "Made in California : Art, Image and Identity, 1900-2000" と題した展示会に.彼の作品が出展され、20世紀を代表するアートとして紹介された。 エドが自動車にアートとしての価値観を付け加えそれを世の中に認識させた事の功績は非常に大きい。 エドの創造した「Kustom Kulture」はかつては一時の流行で低俗な物として扱われたが、今ではアメリカを代表する新しいアートとして高い評価を受け、その先駆者としてED”BIG DADDY”ROTHはその名を歴史に刻んだ。
カーイベントではペイントアートのデモンストレーションをしてギャラリーを惹きつけた。そしてカメラを向けると舌を出して少年のようにおどけてみせた。 彼は自由に生きてきた。そして自由こそが彼の創造の原点であり全てである。そしてみんなが彼に憧れ夢中になる最大の理由はそこにある。 今でも彼の孫ほどの若者達が展示されたカスタムカーに憧れと夢を重ね、熱い視線をおくる。 2001年4月4日、エド”ビック・ダディー”ロスは心臓発作により突然この世を去った。 エドは僕らに「Kustom Kulture」を通じて創造することの楽しさ、自由の素晴らしさを教えてくれた。彼は僕らにとってまさしく”BIG DADDY”なんだ。 僕らにとって車が単なる移動のための道具ではなく、ホビーであり自己主張の代弁者であり続ける限り、そして人に想像力と好奇心がある限り、彼がこの世を去っても彼が遺した「Kustom Kulture」の精神は生き続ける。
こうしてエドの事をまとめていて、思い出した言葉がある。ある番組のインタビューで自動車評論家の得大寺有恒氏が話していた。 「日本にとって車は文明だが、ヨーロッパやアメリカでは文化である。」 なぜ、日本の車が「文化」といえないのか?その答えは ”ビック・ダディー”が知っている。 |
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